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ウケクチメバル
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ポルシェ・959やトヨタ・222D(トヨタ・MR2に似せて作られている)などもグループB参加車両として開発されていたが、ベース車の生産・販売の問題や莫大な競技参加費用がかかるなどのさまざまな事情があり、更にグループBの廃止の煽りを受けてこれらの車が実際の競技に参加することは無かった。

ちなみに、中止になったグループS車両として、開発されていたことが後に明らかになったのは次のとおり。

    * ランチア・デルタ(後のランチア・ECV)
    * アウディ・ミッドシップ4WDプロトタイプ
    * マツダ・4WDプロトタイプ
    * オペル・カデット 4X4

[編集] グループA時代(1987年 - 2001年)

1987年に世界選手権はグループA規定に移行し、ベース車両は継続した12ヶ月間に5000台(後に2500台に変更)以上の生産を義務づけられたほか、さまざまな改造規制が加えられ、ラリー車は市販車に近いものとなった。 ラリーで勝利するためにはフルタイム4WDと2000ccのターボエンジンはもはや必須の装備であったが、そのような高性能なスポーツ車両を生産し販売できるメーカーは少なく、参戦メーカー数は非常に少なくなった。 ランチアはいち早く小型車デルタをベースにラリー車を製作してグループAに対応し、グループA時代を牽引していくことになる。

しかしそのランチアに対し真っ向から勝負を挑んだのが日本車勢である。日本の自動車市場は4WDスポーツ車が順調に売れる世界的に見て珍しい市場であり、日本車メーカーはこぞって高性能な4WDスポーツ車を販売し、1990年代中盤には、それまでWRCの中心を担ってきたヨーロッパの自動車メーカーに代わり、トヨタをはじめ、スバル、三菱、日産、マツダといった日本車メーカーがWRCを席巻した。

この時期、セリカでランチアの厚い壁に挑み続けていたトヨタは、1990年にはドライバーズタイトルを獲得。1992年シーズン終了とともにランチアがワークス活動を休止し、競争力が次第に低下したこともあり、1993年にはついに日本の自動車メーカーとしては初となるWRCマニュファクチャラーズタイトルを獲得。

また、インプレッサの投入とともに1994年からフル参戦を開始したスバルが、1995年、1996年、1997年の3年連続でマニュファクチャラーズ・タイトルを獲得し、WRC日本車黄金時代を築いた。

ところがトヨタは1995年、シーズン中にレギュレーション違反が発覚。トヨタはシーズン獲得ポイントの剥奪と1年間の出場停止処分を受け、1997年シーズン終盤にカローラWRCで復帰するまでほぼ2年間その活動を休止。一方、グループAの2500台という最低生産台数がネックとなり、参戦メーカー数は減少の一途を辿っていたため、より参戦の門戸を広げるため、新たにワールドラリーカー(WRカー)の規定が1997年より導入された。

1997年シーズンは多くのメーカーがWRカーに移行する中、三菱のみグループAに留まり、1998年に初のマニュファクチュアラーズタイトルを獲得。1999年シーズン以降も引き続きグループA規定で参戦したものの、2001年、三菱チームも同年シーズン中のWRカー移行を発表。14年弱の長きに渡るグループA時代は終わりを迎えた。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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